ぼやぼや

駄目にする方法論はある。
駄目なものから駄目な成分を抜くことはできる。
駄目な要素は抜いたほうがいいが「有る必要がない」要素は別にあってもよい。
それくらいの自由度はあるべき。
勘違いを招く等の不具合があるのであれば、蛇足と思うのであれば、
それは「無いほうが良い」要素と言うべき。

あるものを面白いと思うかつまらないと思うかは人による。
多くが楽しむかは出会いの数と受け入れられやすさによる。
出会いの多い少ないは人目に付くか否かによる。
長く楽しまれるかは、内容の持つ可能性による。
スコアの伸び白もその一つではある。
しかし、たかが数値の増加に何時まで一喜一憂し続けられるものか。
また、やはり人目に付いたほうがプレイヤーに出会う機会は多くなる。


結論より過程。
何故プレイしたいと思うか、
プレイするという体験そのものに魅力を感じるからではなかろうか。


メッセージを読み進めるのも一つの仮想体験。
選択肢が無くてもボタンを押しているだけで
その世界に参加しているかのような気持ちになれるものなのかもしれない。
どっちがGoodでどっちがBadかなど考える必要はない。
自分が選んだ結果がBadだったことを嘆くこともない。
その過程で何でもいいから喜びや悲しみ驚きなど、
心が揺さぶられればそれでよいのかもしれない。


WiiやDSが示したものもまた、
十字キーと幾つかのボタンだけによる操作の枠を外れた新しい体験。
コンピューターゲームという体験 ⇒ ファミコンSFC時代
3Dグラフィックと大容量ROMの世界を体験 ⇒ PS、SS 時代
新しいコントローラによる体験 ⇒ DS、Wii 時代
ネット世界による体験? ⇒ 360、PS3Wii

単純なグラフィックの向上は前二つの体験の域を出ない。
質は変わったが新しくはない。
実生活で見ている世界から遠いという意味では
荒いドット絵と矩形波バリバリの「いかにもコンピューター」な表現は
逆に新鮮な体験と受け取られるときが来るのかもしれない。
あれは制限が生み出した表現方法ではあるが決してチープなものではなく、
洗練された一つの表現方法だと思う。
さて、次は何が来るのかしらね?

とりあえず、最近はアーケードのSTGが面白いよ!
あと、WiiFitほしい!(ぇえええー!?